煩悩から抜け出せるのだろうか(『親鸞とキェルケゴールにおける「信心」と「信仰」』)

スザ・ドミンゴス著『親鸞キェルケゴール…』という本を図書館で借りてみました。著者は南山大学准教授らしいのですが、経歴では大谷大学で真宗学の博士号を取得しているみたいです。南山大学キリスト教系の大学なので、神学と仏教学(真宗学)を両方学んでいる貴重な人材とも言えるのかもしれません。

しかし、、、というのが今のところの感想です。時間がなくて半分しか読めていませんが、備忘録のために少し記事を書いておこうと思います。

著者の意図は、親鸞キェルケゴール、浄土真宗における「信心」とキリスト教における「信仰」の比較を行うこと。ここで「信心」と「信仰」が区別されているのには、真宗の「信心」を「faith(信仰)」と訳すことには少し語弊があるという観点があるからです。もしそれらを同一のものとしてしまうと、全ての宗教を絶対的超越者へと向かうものとして全体化することになり、「信心」を「信仰」のただの言い換えとしてその差異を無くしてしまう。言語をただの表現の違いとして見做すのではなく、むしろ宗教言語が経験を形成するという観点(リンドベックやウィトゲンシュタイン)から理論が展開していく。二つの思想を同一化するのではなく、まず「信心」と「信仰」に区別し、差異化した上で比較検討していくようです。

前半部分で親鸞について、後半ではキェルケゴールについて論じているようですが、まだ前半しか読んでいません。今の時点で気になっているのは、第3章「悪の自覚と信心」という章です。

歎異抄』にある「悪人正機」という言葉は一般にも多くの人たちに知れ渡っている言葉。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という悪人こそが阿弥陀仏の本願によって救済される対象であるとする思想。社会史的考察においては、その当時の社会的状況、武士や漁師といった殺生をすることで生きている人々などが「悪人」であるとされているが、著者はそうではなく「親鸞によれば、人間の悪性は、歴史的社会状況や外在的時代現象に由来するよりも、もっと根源的に人間の無始以来の悪業煩悩という内在的原因に由来する」としている。つまり、人間の根源的悪こそが重要であると述べています。

煩悩のせいで生死を離れることができない、という自己の無力性という悪こそが重要であり、この自覚こそが重要であるということはわかるのですが、私はこの歴史的状況からの悪と根源的悪の連続性の方が重要なのではないかなと思います。理念的悪はそのままでは何の意味もなく、それが時間的空間的に局在化されたときが重要であるのではないかな、と。社会的悪を働くものの悲しみは、どうしてもそこから抜け出せないことにあり、それは結局煩悩に起因している。煩悩は分かち難く現実の状況に結びついているのではないかと考えます。理念的な根源的悪も、現在の真宗教学を聞く私たちからすると社会的悪とさほど変わらないものであって、両者は同列に並べていいのではないでしょうか。そう考えると、むしろそこに万人に妥当する宗教性というものが見出されるのではないだろうか…。

 

(続く)

 

 

教理の本質―ポストリベラル時代の宗教と神学

教理の本質―ポストリベラル時代の宗教と神学

  • 作者: G.A.リンドベック,田丸徳善,George A. Lindbeck,星川啓慈,山梨有希子
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  • 発売日: 2003/08/01
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