『野火』ー戦争の悲しさー

先日『野火』という塚本晋也監督の作品を鑑賞。大岡昇平が原作の戦争映画で、第二次世界大戦中のフィリピンに出兵した兵隊たちを描いた作品。作品は原作者の自伝的小説であり、作者の戦時下での過酷な経験や印象が深く刻み込まれている。

主人公、田村一等兵は肺病を患い、部隊から抜けて野戦病院へ行くことを命令されることから映画が始まる。要するに上官は役立たずを野戦病院へと野戦病院へと厄介払いしたのだが、田村は野戦病院から受け入れを拒否される。野戦病院はただの荒屋であり、負傷した兵士たちは麻酔なしで縫合され、寝るときはぎゅう詰めにされている。医者は治療費の代わりに食料(いも)をせしめ、最悪な状況の中で人格もおかしくなっていた。

映画の冒頭では、野戦病院と部隊の間でたらい回しにされる田村が描かれており、負傷した兵士、上官からの暴力などのシーンのせいで開始10分くらいで「こういうのが後、一時間半も続くのか」と思い始め、最初から生易しい映画ではないと覚悟していたが実際に観てみると本当に過酷だった。

部隊にも病院にも身を置けない田村は、病院のすぐ隣にある茂みで寝るが、そこで数人の兵士に出会う。ここで出会うのは、安田(リリー・フランキー)という足を負傷した兵士とそれを慕う若者、永松(森優作)であり、この二人は映画の終盤でも登場する重要人物である。木の下で彼らは寝ていたのだが、そこでいきなり空襲によって野戦病院は火に包まれる。野外にいた主人公たちは「偶然」銃弾と爆発から逃れることができた。

田村はその後、ふらふらと休める場所と食料を探す。タイトルにある「野火」は「春の初めに野原の枯れ草を焼くときの火」を指すが、田村は食糧を煮炊きしている人がいることの目印として野火を目指す。この「野火」の光景は、田村の中で絶えずフラッシュバックし、戦争の記憶として深く刻まれることになる。

既に日本軍は現地のフィリピン人たちとも敵対状態にあり、彼らが住む村にも容易には立ち寄れないが、田村はひと気がなくなった村を発見した。廃墟となった教会で休息する田村だが、偶然訪れたフィリピン人男女に見つかってしまう。田村は二人と話し合いを試みるが、女の方はパニック状態になってしまい田村も錯乱して銃を撃ってしまい、殺してしまう。このときの女を撮る映像は激しく揺れ、田村が直前に聞いた犬の鳴き声と重なり、鑑賞者をも巻き込むようになっている。生き物の鳴き声、狂気が田村を激しく襲うのである。

その後、彼は「伍長」とそれに従う隊員数名の部隊と号流し、いまいる島、レイテ島からの脱出を試みる。歩き続ける彼らだが、その途中、何回も気力を喪失した兵隊たちとすれ違う。途中、完全に生きる気力を失った兵士は「今日はいい天気でよかったですねえ」と言いながら手榴弾を撫で、直後に自爆する。「絶対に戦争に勝って生き延びる」という兵士は一人もおらず、屍体と心神喪失した亡霊と狂気しかいないのだ。

伍長は「人肉を食ってまで生き延びた」と話し、田村は困惑する。隊員たちは「冗談だ」と話を逸らすが、人肉食はこの映画の一つのテーマとなっている。極限の状態で、人は人を食べるしかなくなってしまうのだ。

野原を超える途中、田村たちはアメリカからの攻撃にあう。夜道を歩いていた途端、いきなり明かりが照らされ、兵士たちは全員銃弾に撃たれ、死んでしまう。しかし田村は又しても「偶然」助かり、一命を取り留めるのだ。

ふらふらと歩きながら、田村は永松と安田と再会する。空腹の田村に永松は「猿の肉だ」と言い、干し肉を食べさせる。しかし「猿を狩ってくる」といった永松を追った田村が見たのは、銃で追い回されるフィリピン人だった。食べたのは猿ではなく、人の肉なのだ。永松は、「そうするしかない」「お前も食べた」と言う。そして、永松は「猿の肉」を手に入れられなかったという理由で安田から攻撃を受け、彼らは仲違する。後に和解しようとして安田が現れるが、永松は彼を射殺し、彼の肉を貪る。田村は自分も食われるという恐怖に襲われ、銃を手にするが永松は安田の血で汚れた顔で、笑いながら田村に接近し、「お前が俺を食うんだ」と叫ぶ。映像は激しく揺れ、血まみれの永松の笑い顔がアップで映し出される。

…「私の記憶は、敵国の病院から始まっている」と、時間的な飛躍があり、田村は日本に無事帰還し、自室で小説を執筆しているシーンが映し出される。彼の妻は田村に夜食を渡し、そのあとこっそりと彼の後ろ姿を覗き見るがそこで見たのは、食べる前に手を合わせ、激しく体を揺らし、祈り、許しを請う田村の姿、「偶然」生き残り、また人肉を食べた我が身を受け入れられない田村の姿だった。田村はその後、庭を眺めるが、彼の見開いた目に映るのはフィリピンでも見た激しく燃える「野火」の幻覚である。

映画はここで終了。全体的にグロテスクな描写が多く、一応PG-12ということだったが観た印象ではそれ以上のような気がした。激しいカメラワーク、不自然にも思える大量の屍体、所々で流れるアジアンテイストな不気味なBGMが、戦争の悲惨さ、また田村の主観的光景を際立たせていた。wikipediaをみた限りでは原作は文体が特徴的であるということだったが、両者の差異を確認する上でも原作も読んでみたいと思う。

現在、安保法制に関して盛んに「戦争反対」と叫ばれているが、痛切にそう感じる。勝っても負けても、死んでも生き残っても、戦争に実際に参加すればそこには地獄しか残されていないのではないだろうか。噂で原作は生命倫理の文脈、人が人の肉を食べるというテーマで読まれることが多いと聞くが、映画を観て、そのような選択や判断を超えた、それ以上の問題を描いているのではないかと強く感じた。

塚本晋也監督の映画は他に『双生児』しか観たことがないが、色彩感や演出に関しては『双生児』でみられるスタイルがたくさん見られる。

ザ・トライブ:無音の中から生成する騒音

このあいだ、『ザ・トライブ』という映画を観た。セリフも字幕も音楽もなし、ということで公開前から割と話題になっていた作品。セリフがない、というのは映画の舞台が聾学校であるため、全員が手話で会話を行うからです。

寄宿制の聾学校に転校してきた主人公。風景を見る限り、いかにも治安が悪そうな場所で、寮の中も荒れています。学校の風景はいかにも普通の学校のように見えますが、その聾学校の暗部には犯罪組織「トライブ」が存在しており、ドラッグや売春、窃盗などの犯罪行為が行われています。

主人公は当然、よそから来た人間なので最初はからかわれたりして、邪険にされますが、ある日決闘でその肉体的強さを証明することによって犯罪組織に加入します。下級生を監督したり、売春の送迎をする係となったのですが、主人公は売春をしている女子一人に恋をしてしまいます。その女子は売春で貯めたお金でイタリアで生活することを夢見ていたわけですが、その女子と離れたくない主人公は彼女が苦労して手に入れたパスポートを力づくで奪い、破り捨てます。その行動によって主人公は仲間から制裁を加えられますが、最後に主人公は寮で寝ている数人の仲間をベッド横のサイドテーブルで殴り殺していきます。終劇。

大まかなあらすじは以上です。そして、全編手話でしかも字幕なしなので、細かなところは把握できていない部分があります。

暴力、セックス、殺人といった様々な描写が、この映画の衝撃力を作り上げていますが、なんといってもそれらが音もなく繰り広げられているというところに特徴があると言えます。しかし、無音というわけでもなく、物を壊すときに発せられる音、手話を使う際に行われる身体全体の動きの音といった、出演者には聞こえない音を鑑賞者は聴くことになり、また静寂の中にとてつもなく激しい暴力の音を聴くことになります。また、その中に絶えず反響する不良たちの悲しみの音色も聞こえて来るような気がしました。

主人公は破滅的な場所で少女を愛したが、少女はその愛を拒絶した。映画のコピーは、「少年は愛を欲望した。少女は愛なんか信じてなかった。」ですが、悲しみの連鎖が起こる退廃的な場所で見出された希望は、それがどんなに細やかで崇高なものだったとしても報われないという悲劇を表していたのではないでしょうか。

煩悩から抜け出せるのだろうか(『親鸞とキェルケゴールにおける「信心」と「信仰」』)

スザ・ドミンゴス著『親鸞キェルケゴール…』という本を図書館で借りてみました。著者は南山大学准教授らしいのですが、経歴では大谷大学で真宗学の博士号を取得しているみたいです。南山大学キリスト教系の大学なので、神学と仏教学(真宗学)を両方学んでいる貴重な人材とも言えるのかもしれません。

しかし、、、というのが今のところの感想です。時間がなくて半分しか読めていませんが、備忘録のために少し記事を書いておこうと思います。

著者の意図は、親鸞キェルケゴール、浄土真宗における「信心」とキリスト教における「信仰」の比較を行うこと。ここで「信心」と「信仰」が区別されているのには、真宗の「信心」を「faith(信仰)」と訳すことには少し語弊があるという観点があるからです。もしそれらを同一のものとしてしまうと、全ての宗教を絶対的超越者へと向かうものとして全体化することになり、「信心」を「信仰」のただの言い換えとしてその差異を無くしてしまう。言語をただの表現の違いとして見做すのではなく、むしろ宗教言語が経験を形成するという観点(リンドベックやウィトゲンシュタイン)から理論が展開していく。二つの思想を同一化するのではなく、まず「信心」と「信仰」に区別し、差異化した上で比較検討していくようです。

前半部分で親鸞について、後半ではキェルケゴールについて論じているようですが、まだ前半しか読んでいません。今の時点で気になっているのは、第3章「悪の自覚と信心」という章です。

歎異抄』にある「悪人正機」という言葉は一般にも多くの人たちに知れ渡っている言葉。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という悪人こそが阿弥陀仏の本願によって救済される対象であるとする思想。社会史的考察においては、その当時の社会的状況、武士や漁師といった殺生をすることで生きている人々などが「悪人」であるとされているが、著者はそうではなく「親鸞によれば、人間の悪性は、歴史的社会状況や外在的時代現象に由来するよりも、もっと根源的に人間の無始以来の悪業煩悩という内在的原因に由来する」としている。つまり、人間の根源的悪こそが重要であると述べています。

煩悩のせいで生死を離れることができない、という自己の無力性という悪こそが重要であり、この自覚こそが重要であるということはわかるのですが、私はこの歴史的状況からの悪と根源的悪の連続性の方が重要なのではないかなと思います。理念的悪はそのままでは何の意味もなく、それが時間的空間的に局在化されたときが重要であるのではないかな、と。社会的悪を働くものの悲しみは、どうしてもそこから抜け出せないことにあり、それは結局煩悩に起因している。煩悩は分かち難く現実の状況に結びついているのではないかと考えます。理念的な根源的悪も、現在の真宗教学を聞く私たちからすると社会的悪とさほど変わらないものであって、両者は同列に並べていいのではないでしょうか。そう考えると、むしろそこに万人に妥当する宗教性というものが見出されるのではないだろうか…。

 

(続く)

 

 

教理の本質―ポストリベラル時代の宗教と神学

教理の本質―ポストリベラル時代の宗教と神学

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孤独な天才、『イミテーション・ゲーム』

ベネディクト・カンバーバッジ主演の『イミテーション・ゲーム』を観ました。なぜかというと、いま同性愛要素が入った映画がマイブームなので、それらしきものを見つけたらとりあえず観ることにしているからです。『イミテーション・ゲーム』は話題になってたからその存在は知っていたけど、同性愛要素があるのは知らなかった。

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あんまりかっこいいって思ったことなかったけど、映画みたらベネディクト・カンバーバッジがめっちゃカッコよくみえて、ハマりました。特徴のある顔してて、日本人でいうと堺雅人みたいな感じがする...堺雅人はあまりタイプではないけれど、ベネ様はよかったです。

 

天才数学者アラン・チューリング第二次世界大戦中に解読不能といわれたナチス・ドイツ軍の暗号「エニグマ」の解読に挑む話。このアラン・チューリングは実在した人物であり、実際にエニグマの解読に成功したといわれています。エニグマの解読自体は極秘だったため、その事実やアラン・チューリングの名前は世間に公表されてなかったそうで、彼の名前はその功績にも関わらずあまり知れ渡ってはいないそう。詳しいことはこの記事に書いてありました。(https://www.bbcworldnews-japan.com/uk_topics/view/0000268

 

しかし、物語を紡ぐのは「エニグマの解読」という目的に沿った単線ではなく、彼のパーソナリティ、特に「性的指向」という横糸もそこに存在しています。彼の学生時代の回想シーン、いじめられっ子だったアランに優しくしてくれていた同級生との思い出シーンが所々に挿入されていて、それが伏線となって、エニグマの解読を中心としつつも彼のひとつの生涯をうまく描いていると思いました。

 

最終的にゲイだということが警察にバレて、刑務所行きor保護観察かつホルモン投与の選択を迫られ、研究を続けるためにアランは後者を選択しますが、女性ホルモンを投与することで同性愛を矯正させるっていう発想が過去にあったなんて知りませんでした。

60年前、イギリスでは同性愛が罪だったこと、知っていたけど映画で見るととても切ない気持ちになりました。自分のことを隠し通さなければならない、というかゲイであるということが今とは違って、異常な形の性欲であると認識させられることはとんでもない悲しみだったろうな。

『海街diary』

先日『海街diary』を観てきた。あるラジオで「とりとめがなくて、大きな出来事もなく、ただ流れていく感じの映画」と聞いた。それは恐らく悪い意味での感想ではなかったんだろうけど、観た感じでは逆に良い意味でただ流れていくような映画ではないと思った。

海街、鎌倉で4人の姉妹が暮らす話だが、その末っ子は腹違いの妹(すず)。他の姉妹たちは鎌倉で暮らしていたのであるが、彼女たちの父親は他の女性とくっつき、他の場所で暮らしていた。その父親が死に、葬儀に参列した際に彼女たちは自分たちの腹違いの妹と出会う。その腹違いの妹自身の母親はすでに亡くなっており、現在の母親は継母であったため、そのことを気遣った姉たちは「鎌倉で暮らさない?」とすずに伝えると、すずはその提案に乗って姉たちと鎌倉での暮らしを始める…

その暮らしの中で、自分の母が家族のいる男性を好きになってしまったということ、また自分がその母親のこどもであるという自意識から自らを肯定できずにいたが、3人の姉と暮らしていく中でだんだんと彼女たちと打ち解け、自分に対して正直に生きていくようになっていくというすずの成長の記録でもあるが、物語の中では他の3人の姉妹それぞれの考え、生き方も描かれており、彼女たちの変化も織り交ぜられている。

あまり深く感想は語れないが、鎌倉での日常的な風景が四季折々に映されているのがとても美しかった。けれど、単に美的であるというよりも人間の暮らしに基づいた感じがとてもよかった。しらす丼、アジフライ、鎌倉の食べ物もとても美味しそうにみえた。

キャストに関しては、綾瀬はるか長澤まさみ夏帆広瀬すずといった豪華な女優陣が主人公を演じ、脇役には樹木希林堤真一リリー・フランキー風吹ジュン大竹しのぶなどのこれまた豪華な役者たちが配役されていて、日常を描き出す映画には派手な人たちばかりかと思いきや、彼らの演技力によってその違和感は全く感じられず、むしろ良い役者たちによって「日常」はとても自然に描かれているような印象を覚えた。

 

とってもよい映画でした。

 

諸星大二郎『夢見村にて』

諸星大二郎の「妖怪ハンター」シリーズの『夢見村にて』を購入。以前から友人に勧められていた諸星大二郎の作品だったが、なんで今まで読まなかったのだろうというくらい最高だった。収録されているのは「夢見村にて」と「悪魚の海」。

「夢見村にて」は主人公、天木薫が夢を売買するという風習をもった村に実地調査に訪れたところから始まる。夢見村の人々は昔から夢を売買取引するという不可思議な風習を持っているのだが、そこでは吉夢とされているものに価値がついており、逆に凶夢は誰かに売買や譲渡しなければ不幸を呼び寄せる。そして異常に夢に執着する村人たちは夢を人殺しをしてまで奪おうとするのだが、主人公はこれに巻き込まれてしまう、、、という話。

読んでいるうちに現実と夢の境がつかなくなり、めまいがするような構成になっている。筒井康隆の『パプリカ』のように、やはり夢の世界が描かれると常にシーンが重層的になっていて、さらに層と層の明確な句切れがわからず、読んでいるものは魅惑的混乱に陥る。そのようなストーリーの構成の仕方も素晴らしかった!

それにしても夢を売り買いするっていう発想が日本に昔からあるということに驚いた。吉備真備北条政子は他人の吉夢を買い取ることで大成したと言われているらしい。怪異なことのように見られるが、もし夢が予知夢として現実を予告するものであるとすればそれはとんでもなく貴重な情報であるため、そこに価値が生じるのは当然でしょうね。しっかし、逆に買い取ってもらうということを考えると、単に夢=情報っていうことでないということが考えられる。現代とは違った夢認識があるとすれば大変興味深い…。

もうひとつのお話、「悪魚の海」も面白かった。ある村では海女たちが人魚になってしまうという物語なのだが、人魚や悪魚の描写が衝撃的で「夢見村にて」とはまた違った印象を受けたが、伊藤潤二の漫画のような怪異さとスピード感があり私好みだった。おとぎ話の人魚姫とは違って、日本における人魚の話にはいつも人間の業が関わっている気がして、おもしろい。SIRENにでてくるような人魚伝説や人魚の剥製作成等…何か人間の陰画のような役割を果たしているんじゃなかろうか…。